日下部太郎とウィリアム・グリフィス

日本最初の海外大学留学生

日下部太郎
日下部太郎

 日下部太郎は、1845年に福井藩士の長男として生まれました。幼名を八木八十八(ヤギヤソハチ)といいました。勉強熱心な八十八は13歳のころ藩の学校「明道館」に入学しました。1865年、21歳の時には、藩の命令で長崎へ行き英学を勉強しました。それまで幕府は鎖国政策をとっていましたが、1866年にはついに海外渡航を許可することになり、八十八は早速藩に海外渡航の願いを提出し許可されました。彼は八木家の先祖の姓を名乗り、日下部太郎と改名して海外渡航の手続きをとりました。
 太郎は、1867年、大きな期待と決意を胸に秘めて長崎を出発、50日の長い船旅の末にアメリカ合衆国、ニュージャージー州、ニューブランズウィック市に着きました。ニューブランズウィック市には、日本人学生の留学を支援したオランダ改革派教会と提携する教育機関でアメリカ最古の大学の一つのラトガース大学、付属のグラマースクール、そして神学校がありました。太郎は大学の本科(理学科)に入学を認められた最初の日本人留学生となりました。

病魔に倒れて、異国に客死

 母国日本が長年の鎖国で欧米に取った遅れを取り戻さねばならないとの思い入れが特に強かった太郎は、日夜勉強に打ち込み、クラスで首席の成績を収めるまでになりました。しかし経済上の困難から留学生活は困窮を極めました。やがて過労が重なって体調を崩し、微熱の続く日が多くなりました。彼の健康を気遣った周りの勧めで療養も心掛けたものの、あまりに一途な苦学が祟って太郎はついに肺結核に倒れました。卒業することはかなわず、明治三年(1870)、その24歳の短い一生を異国の地で閉じたのでした。大学は、太郎の学業の優秀さを認め、彼のために盛大な葬儀を執り行ったほか、全米の大学の優等な卒業生で組織されている友愛会、ファイ・ベータ・カッパの会員に推薦し、その印として名誉ある金の鍵を贈りました。

グリフィスの生い立ち

ウィリアム・グリフィス
ウィリアム・グリフィス

 ウィリアム・E・グリフィス(ウィリー)は、1843年ペンシルバニア州フィラデルフィアの貿易商の家の第4子として生まれました。ウィリーは才覚豊かな家族思いの青年で、家業が傾いた際には高校を中退して働き、長姉のマギーと共に家計を支えました。1863年には南北戦争の帰趨を決したゲティスバーグの戦いに北軍から参加。1865年には母親のウィリーへのたっての願いであった牧師になることを目指してラトガース大学の古典学科に入学しました。大学では優秀な成績を収めたほか、スポーツにも秀で、現在に続くラトガース大学新聞のTargumも創刊するなどの活躍で数々の賞を受けました。卒業時にはファイ・ベータ・カッパの会員に選ばれています。

二人の接点

 ウィリーはラトガースに在学中も引き続き実家の経済を助けるために教会の見習い牧師として、また当時ラトガースに来始めていた日本人留学生に英語などを家庭教師として教えることで収入を得ていました。2年下の科学科にいた日下部太郎にも一時ラテン語のレッスンをしました。太郎が亡くなった際には葬儀に出席したほか、Targumに追悼文を書いて弔いました。

福井からの招待とエレンとの別れ

 ウィリーにはこの頃、将来を誓い合った婚約者エレン・ジョンソンがいました。大学を卒業後神学校に進学し、牧師夫妻として家庭を築こうと二人は語り合っていました。
 その頃、ウィリーは人を介して理化学の教師として福井に赴任してほしいとの招待を受けます。当時の福井藩は、開明的な前藩主松平春嶽の薫陶のもとで、日下部太郎などの留学生を派遣する以上にアメリカの有能な教師を招請することとしたのでした。ウィリーはエレンとの関係からこの招待を受けるかどうか悩みましたが、日本の教育と近代化に貢献することは神への使命だと考えて福井行きを決意しました。しかしそれはエレンとの別れを意味していました。
 ウィリーは1870年12月初めサンフランシスコを船出、12月29日に横浜に着き、東京に2ヶ月滞在した後、3月4日に福井に到着しました。

福井でのグリフィス

 福井ではウィリーはまず藩主に表敬した後、日下部太郎の父に会って太郎のファイ・ベータ・カッパのゴールドキーを手渡しました。
 藩校「明道館」は「明新館」と名前が改められていました。そこでウィリーは、先ず、物理と化学を教えました。そして、理科実験室を作りました。それは我が国でも有数の素晴らしいものでした。実験も含めて科学を丁寧に、根気強く教えました。グリフィスの熱意は生徒達の真剣さを誘いました。そのうち、約束の洋館が出来上がり、人々はそれを「異人館」と呼びました。ウィリーの月給は300ドルで、これは藩の家老職並みの扱いでした。藩はそれほど大きな期待をウィリーに寄せていたのです。ウィリーはこれに応えて福井藩の教育に打ち込みました。町の人達からも慕われ、信頼されていました。一方でウィリーは内心では、アメリカに残してきた家族への郷愁と別れてきたエレンへの思慕による強い孤独と戦いました。

廃藩置県とクリスマスパーティー

 その頃、日本では大きな変動が起こりました。明治新政府が1871年7月に出した廃藩置県の令を受けて、10月には藩主の松平茂昭が福井を去るに当たっての訣別式を福井城で行った場にウィリーは招かれて立ち合いました。これでウィリーを招いた福井藩は無くなり、代わって雇い主となった明治政府はウィリーを東京に招請します。優秀な同僚や生徒たちも次々に離れていく中で福井への思いが強くなっていたウィリーは迷いましたが、結局東京に出て広く日本の教育のために尽くす決意をし、1872年1月に福井を去りました。その際にウィリーは次の言葉を残しました:「福井よ、あなたは幸福の井戸であった。なぜなら僕はあなたの中に真理を発見したからである」。
 実はウィリーはこれに先立つ1871年12月25日に、「異人館」に明新館の生徒や教員などを多勢招いて、公に開かれたものとしては日本で初めてとなるクリスマス・パーティーを開き、皆に大変喜ばれました。日本ではまだキリスト教が解禁される前のことでした。前夜のクリスマスイヴには一緒に住み込んでいた明新館の生徒たち5人と使用人の家族に暖炉にストッキングの代わりに掛けさせておいた足袋に贈り物を詰めたという経緯も、日記や家族への手紙、さらに帰米後に出版した本(後述)の中でも詳しく記録しています。これは福井の「家族」と呼んで目をかけていた同居者たちと楽しみを分かち合って故郷を遠く離れていた寂しさを癒したのだと思われます。しかしそれ以上に、クリスマスパーティーはキリスト教社会に源流はあるものの、宗教行事ではなく、冬に家族を中心に世界各地で行われる年中催事に通じており、文化の違いを超えて人の心はどこでも同じという本来当たり前のことをウィリーは明治初年の福井でのこの体験を通して人類普遍の真理として痛感したものと言えます。
 東京に出たウィリーは、大学南校(後の東京大学)で教えることになりました。また、最も信頼していた姉のマギーも日本に来て、生活面でウィリーを支える一方、東京女学校(日本で最初の女子の官立学校)で教えました。ウィリーは1874年に姉とともに帰国するまで、南校の教頭であったグイド・フルベッキの右腕としてわが国の新しい教育のために尽くしました。

米国に帰国後の活躍

 グリフィスはアメリカに帰国後は牧師となりますが、同時にアメリカ社会に日本やその他のアジアのことを紹介する文筆・講演活動を精力的に行いました。特に日本については、1876年に刊行した”The Mikado’s Empire”(「ミカドの帝国」)の第一部で日本の通史を、第二部で福井などの日本滞在記と日本の文化風物を紹介しています。第一部の最終章では、ウィリー自身が福井で立ち合った廃藩置県も含む明治維新について、当時の外国の知識人として、透徹した歴史観と日本への深い思いを開陳しています。ウィリーは、その後も多数の著書と言論活動を通して、明治・大正から昭和にかけての欧米の対日理解増進に枢要な足跡を残しました。
 その後1927年に、83歳のウィリーは日本政府の招待により再度日本を訪れました。福井にも立ち寄り、多くの福井市民から大歓迎を受けました。54年ぶりのことでした。その翌年の1928年、フロリダ州の別荘で84歳の実り多い一生を終えました。